Profile

キム・ギドク  KIM Ki-duk

KIM Ki-duk 脚本・監督・製作・主演・撮影・編集・録音・音響・美術

1960年12月20日、慶尚北道のポンファ生まれ。山あいの村で育つ。父は村長だったというが暮らしは貧しく、9歳でソウル近郊に転居。小学校卒業後、農業専門学校に進む。工場勤務の後、厳しい父から逃げたい思いから軍隊に志願し、20歳から5年間を海兵隊で過ごす。除隊後、夜間の神学校に通い、教会に2年勤務して牧師を目指す。同時に幼い頃から好きだった絵画制作に没頭。90年にパリに渡り、描いた絵を売って生計を立てながら絵画を学んだ。93年春、一時帰国した際に、韓国映画振興公社の脚本公募を知り、パリでの経験を元に「画家と死刑囚」の脚本を書き始めたものの、書き方を知らなかったため、脚本作家協会教育院の基礎クラスに入学。パリに戻ることを延期して完成させた脚本は、脚本作家協会の賞を受けた。その後は、脚本執筆に専念し、95年「無断横断」で映画振興公社脚本公募大賞を受賞。「無断横断」は数十社の映画会社からオファーがあったが、映画化の話は消えてしまう。

ある映画会社の専属作家を辞めてフリーへ。96年『鰐(ワニ)』で、監督デビューを果たす。デビュー作から注目を集め、フランス・ロケした『ワイルド・アニマル』でも韓国映画界を驚かせるなど1作ごとにセンセーションを巻き起こし、韓国映画界の異端児、鬼才と称されてきたが、『悪い女 青い門』がベルリン映画祭パノラマ部門に招待、続く『魚と寝る女』はヴェネチア映画祭をはじめ数々の国際映画祭で賞賛され「世界のキム・ギドク」として注目される存在となる。日本に初めて紹介されたキム・ギドク映画は『魚と寝る女』で、以来熱狂的なファンを獲得している。 01年『受取人不明』はヴェネチア映画祭、02年『悪い男』はベルリン映画祭コンペティション部門に正式出品。03年『春夏秋冬そして春』が韓国の2大映画祭の作品賞を独占し、全米でも240万ドル近いヒットを記録した。03年2月に製作会社キム・ギドク・フィルムを設立。04年『サマリア』がベルリン映画祭で、『うつせみ』がヴェネチア映画祭でそれぞれ監督賞に輝き、世界三大映画祭の二つを同年連続制覇するという快挙を成し遂げる。05年の『弓』はカンヌ映画祭<ある視点>部門でオープニング上映された。06年『絶対の愛』で韓国映画界からの引退宣言をしファンに衝撃を与えたが、翌年1月には『ブレス』(07)を完成。しかし08年の『悲夢』撮影後、映画界から姿を消す。最新作「アーメン」は、サン・セバスチャン国際映画祭コンペティション部門に正式出品された。

『秘夢』の撮影中に一人の女優が危うく命を落とすような事故にあった。自殺のシーンを撮っているとき、彼女はだれも助けることができない状態で首を吊ったままになったのだ。幸運なことに、万が一のために梯子を50センチ下に下げてあった。もし、私がその梯子に飛び乗り紐をほどくことができなかったら…。しばらく私は自分を失い人知れず泣くばかりだった。そして、最も思い出したくないこの瞬間が、私が13年の間に作った15本の映画を思い起こさせることになる。

映画…美しくも残酷で、じりじりしながらも強烈で、悲しくも甘美な、映画的創造の時間にあるとき、私は自分の人生なんて全く意に介さなかった。無秩序な物語を描き、さらに強く、痛みを加え、胸をかきむしるような、さらには無慈悲なやり方で、すべての感情はウィルスのように私を侵していった。私は壁に向かって一人、私は世界で最も悲しい人間となり、世界を操作していると勘違いをしていた。

その瞬間…私は何もできなかった。私の映画は私自身の劣等感から生み出されている。

アリラン、 アリランの丘を越え、
アリラン、上り、下り、
悲しみも喜びも
痛みも幸せも
これをして、あれをして、
我々が人生で感じる感情…。

映画を作って出会ってきた数えきれない人々永遠と思われた関係もティッシュペーパーのように簡単に離れていく。 私が負った傷、私から離れていった人。愛、情熱、憎しみ、殺意に近い怒りに絡みつかれた私たち人間。
私にとって、すべてはアリランだ。
キム・ギドク
人生を映画に費やしてきて心残りはない。だが、映画なしでも生きていけない。
私は映画といっしょに人生を生きていきたい。
アリラン…

2011年4月 キム・ギドク

Copyright(c) 2012 Crest International Inc. All rights reserved.